kim hyunseok


誤解




私は1990年5月26日、大韓民国の木浦にあるキリスト産婦人科病院で生まれた。その後、光州へ引っ越し、日本へ渡ってきた2014年5月までは、私はずっと光州で暮らした。私の一番古い記憶は、3歳の時の記憶である。結婚式場の中での記憶であり、新郎と新婦は私の父と母であった。二人はお祝いの言葉を聞くため、式場の前で立っていた。私は、最も前の座席で、 年上のいとこの膝の上に座っていた。父と母のそばに行きたくて、 暴れてみたが、年上のいとこが私をつかんで離してくれなくて、非常に悲しかった記憶である。

実はこの記憶には面白いことろがあって、私が高校生の時までは、この事実が夢だと認識していた。何度かこのような記憶に対して両親に事実の確認をしてみたが「面白い夢を 見たんだね」と言って、うやむやにやり過ごされた。

その後、偶然、両親の結婚式の写真を見ることになり、右下に書かれた日付が93年だったということが分かった。

90年代初め、父は大学を卒業し、腕時計を訪問販売する社員として仕事をすることになったが、長くは働かず、1年くらいでやめることになった。その後、父は祖父からお金 を借りて、高校の近くに小さな文房具屋を開くことになった。店には文房具だけではなく、お菓子や、当時流行っていたアイドルのアルバムなども販売していた。店の奥側に は、流し台があるワンルームのような部屋があって、そこで3人で食べたり、寝たりとい う暮らしをしていた。夜ご飯はいつも父が店を見ている間に母と食べていた。

私は、家から一番近い幼稚園に通うことになった。消防訓練をしたことが、幼稚園の数 少ない記憶の中で、最も鮮明な記憶の一つである。その日は天気が良かった。みんなが運 動場に集まり、運動場の真ん中には、みすぼらしいドラム缶と捨てられた木材のようなも のが置かれていた。消防隊員は、そこに火をつけては、消火器を使って火を消すことを繰 り返した。初めて大きい火を見た。

初めて異性に興味を持ち始めた。

小学校に入学した。 1年生の担任の先生は、かなり権威主義者であった。宿題や言うことに対して、言う通りにならない場合は、体罰を行なっていた。私はクラスの投票で班長を務めることになり、私はそれを自ら誇りにしていた。私が覚えている班長の役割は、たまに担任の先生が席を外す間、先生の代わりに教卓の前に立ち、先生が戻って来るまで、 クラスの子供たちに静かな状態を維持させることだった。騒いだ子がいたら、私はその子 の名前を黒板に書き、先生が戻ってきたときは、その子は体罰を受けることになってい た。体罰は細くて長い棒で手のひらを叩くものだった。

私は大学を卒業した後、偶然家族と一緒に私の小学生の頃の話をすることになった。母 親からは、当時の学級委員の母親たちが、みんなでお金を集め、そのお金を担任の先生に 渡す風潮があったと言う話を聞くことができた。母もそれに協力したと言った。

父と私はその理由を聞くと、「みんなそうしていたから、仕方なかった」と言う答えだった。

小学生3年生になったとき、自然に親しくなった女の子がいた。異性として好きだったわけではなかったが、友達として一緒に過ごす時間が多かった。その女の子と二人で一緒に遊んでいると、時々、誰かから付き合っていると誤解を受けたりして、気持ちがもやもやしていた。

私の家と学校の間には、街の人々が簡単に散歩や運動ができる公園があった。私はいつもその公園を通って登下校するのが好きだった。春には、学校からの帰りに、公園に咲いていた小さな青い花を折って母にプレゼントしたりした。

ある日は、学校に行く途中、公園で死んでいたスズメを見た。人がよく通るところで死んでいたため、人が通らなさそうなところまでスズメを運び、スズメを埋めてあげた。学 校帰りに、死んだスズメが埋め込まれた場所をしばらく眺めた。その日は一日中、死んだスズメのことを考えた。

4年生の時書いた絵日記には、光州ビエンナーレで見た作品と、それに対する感想が書かれていた。人体彫刻像が2つが並んで立っていて、男のような体をしているが、性器の 部分が女性の性器になっている彫刻像と、女性のような体をしているが、性器の部分が男性の性器になっている彫刻像であった。私は絵日記にそれらの絵を描き、おかしかったと 書いた。「おえっ!」と書いた。

私は小学校の5年生まで、ずっと班長をしてきた。4年生が終わる頃、両親が運営していた店の大家が、家賃を上げるという要求をしてきた。経済的に負担を感じた二人は、引っ越しを決心することになった。引越し先は、住んでいたところから車で15分ほど離れたところで、新しくできた小学校の前だった。仲良くしていた友達と離れなければいけない ことに、特に大きな寂しさを感じてはいなかった。

新たに引っ越して来たところは、まだ都市開発が終わっていなくて、家の周りには空き地が多かった。良い印象も悪い印象もなかった。ただ、自分の部屋ができて、それが少し嬉しかった。 そしてこの頃になって、私は自分の家が、経済的に余裕がある家ではないということが わかった。

私はここで8年間過ごすことになり、その間にこの街には、3階から8階程の、外壁が大理石でできた建物が、たくさん入るようになった。

ある日、友達の家に遊びに行った。その友達は20階のマンションの15階に住んでい て、友達が何かを取りに家の中に入っている間、私は15階の廊下で友達が出るまで待っていた。15階と16階の間には窓があって、私はそこから飛び降りてみようかと思った。片足を出して、他の足も持ち上げようとしたら、怖くなって、やめた。

中学生になった私は制服を着るようになった。成績表をもらうようになった。インター ネットで、ポルノ映像を初めて見た。

私が通っていた中学校は、男女共学だったが、クラスは性別で分かれていた。私が1年 生の時、1年生の男子のクラスは、2年生の女子のクラスと同じフロアだった。 2年生の女子の先輩の中一人が、私のことを好きだった。当時、私は別に好きだった同級生の女の子がいたが、その先輩の気持ちを断る方法、あるいは断る理由がよく分からなかったた め、付き合うことになり、長くは続かずに別れることになった。

同級生の中では、小学校の時からいじめられてきた子がいた。鼻炎があり、いつも他の子より、多くの鼻水を流した。中学生になっても彼は鼻炎が治らず、たくさんの鼻水を流し、同級生たちはそれにからかった。一度、彼は、同級生たちのいじめに対して耐えられなくなり、カッターナイフを取り出し、周りを脅かした。

ある日は、彼と私の間に、何かのトラブルがあり、喧嘩をしたことがあった。誰も喧嘩 を止めず、チャイムがなる前の5分間、私は彼と喧嘩をやり続けた。戦いを見物した子たちの中で一人は、私が戦ってる姿を真似して笑ったりした。恥ずかしかったが、私よりも力が強い子だったので、それについて私は何も言うことができなかった。

高校を卒業した後、友達から彼の話をたまに聞くことができた。当時のことについて、会いに行って謝りたいと思ったが、偽善だと思ってやめた。

私は中学生になってからはたくさんの嘘ついた。自分が不利にならないよう、両親や友達に嘘ついた。

小学生の時とは違って、中学生になってからは、状況を理解する努力が必要だった。友達との関係は、より一層複雑になった。欲しいものを得るためには、お金が必要だということが分かった。

ナイキの靴が欲しくて両親にゴネた。両親は私が普段履いていたアシックスの靴より、ナイキの靴の方が3倍ほど高かったので負担を感じていた。それにもかかわらず、私は数日間、執拗に要求し、結局ナイキの靴を履くことができた。ナイキの靴を履き始め、一週 間くらいが経ったある日、登校後、廊下の靴入れに入れて置いた靴が、無くなっていた。 誰かが隠していたり、盗んだだろうと判断した。一時間くらい、学校の周辺を探してみた が、見つからなかった。私は担任の先生にこのことを知らせた。先生は誰か疑わしい人が いるのかという質問に、私は当時、仲が良くなかった同級生の名前を教えた。先生は、そ の同級生の家に電話をかけたが、その子は、自分は知らないと答えた。

両親は上履きで家に帰ってきた私に靴について尋ねた。私はありのまま話した。父は、もう一回一緒に探してみようといい、自転車の後ろに自分を乗せて、学校の周りを見て回った。靴は見つからなかった。

私はもう一度、両親に同じ靴を買ってほしいと無理を言った。両親は困っていた。数日後、父はナイキの靴を買ってきてくれた。しかし、私が欲しがっていたモデルとは違う靴だった。がっかりしたが、学校に行ったら友達が新しい靴のことを褒めてくれて、嬉しかった。

数か月後、私は無くしていた自分の靴を履いている他のクラスの同級生を見た。しかし私より力が強い子だったので返してほしいとは言えなかった。私は放課後、彼より早くその靴をとって家に帰った。

その後、彼は何もなかったように新しいナイキの靴を履いて学校に来た。私はクラスの掃除の時間を利用して、彼の新しい靴をトイレの便器に捨てた。その後、自分の靴が無くなったことに気づいた彼は、靴を探し始め、便器の中から靴を取り出した。彼が怒り出したり、犯人を探そうとしたりするような様子はなかった。

ある日は、当時私と最も親しかった友達が、他の友達と口喧嘩をしていた。私の友達は、彼から約束していたものが受け取れなくて怒っていた。私の友達は、いきなり彼のことを一方的に殴り出した。隣で見ていた私もそれに力を貸した。私はそれが友情だと思ったし、かっこいい行動だと思っていた。

両親は朝7時に店のドアを開け、夜10時にドアを閉めた。

塾に通わなければならなかった。行きたくなかったが、母の強要で行くしかなかった。母は私の学校の成績が上がることを願っていた。当時、私はクラスの35人の中で18~25 等の間の成績をもらっていた。学校と塾以外の時間は家でパソコンゲームにほとんどの時間を費やした。

高校に入学をした。まだ制服を着ていて、成績表を受けた。 男子高校で規律が厳しいことで有名な学校だった。先生たちは片手に棒を握っていた。高校は朝8時に出席を取り、夜10時まで、学校で勉強をしなければならなかった。睡眠 以外の時間はほとんど学校で過ごしていた。一日中学校で時間を過ごさなければいけない という事実に、最初は慣れていなかったが、みんなが同じ条件で同じ時間を過ごすことで 大きな不満はなかった。良い大学に入学したかった。しかし良い大学に必ず入学しなけれ ばならない明確な理由があるわけではなかった。

私なりには良い成績を出すために努力をしてみたが、望んでる通りに成績が上がることはなかった。この頃、私は、私の周りの友達より勉強に素質がないということがわかった。

高校生の時は、友達みんなと問題なく円満に過ごした。一度だけ小さな争いがあったくらいだった。 50分間の授業や勉強は退屈だったが、10分間の休みの時間は友達と話した り、遊んだりして、すごく楽しかった。

ある日は、休み時間に同じクラスの友達が、Marilyn MansonのThe Beautiful Peopleという曲を皆に勧めていた。みんなにはあまり受け入れられない雰囲気の中で、私だけは この曲を気に入って、彼はすごく喜んだ。数日後、彼は自分が好きな曲を集め入れたCDを私にプレゼントしてくれた。私は嬉しかった。CDには Oasis、Radiohead、Marilyn Manson、Metallicaのようなロックのジャンルの曲が多かった。私はRadioheadのファ ンになった。

初めてのセックスをした。

17代目の大統領選挙があった。父と母が応援していない与党の候補者が大統領になった。私が暮らしていた光州というところは、1980年代に起きた民主化運動が軍部政権に よって強い弾圧を受け、それによる反発で与党の権力に対する市民たちの抵抗精神が強いところであった。なので地域投票率も野党の方が圧倒的に高かったし、大統領の選挙もそ うだった。

大統領の選挙の結果が出た次の日、授業を始める前に各先生たちは、選挙結果に対しての不満と新しい大統領への批判を述べた。

その日も宿題をしてこなかったり、自分の指示に従わないと、学生は体罰を受けなければならなかった。体罰の方式は、各先生によって違った。

違法ダウンロードをして見た映画No Country for Old Menを見てショックを受けた。

修学能力試験の日に、私は緊張していなかった。中学校の時から上がりも下がりもしない成績について私はよく理解していた。試験の成績は、いつものように出てきた。私は光 州にある私立大学の中で成績に合った学科を選ぶことにした。新聞放送学科と国語国文学科が私の成績に適切な学科だった。テレビで取材のために苦労している記者たちが素敵だ と思って新聞放送学科を選ぶことにした。

入学金と授業料で70万円を払うことになった。コミュニケーション概論、ジャーナリズム概論等、見知らぬ単語と授業環境に、私はうまく適応できなかった。友達と集まって おいしいもの食べたり、遊んだりするのは楽しかったが、授業に出るのは嫌だった。前期 が終わって、私は学士警告を受けた。 後期からは、学費も払わず、学校にも行かなかっ た。自動的に退学になった。

初めてアルバイトをした。大型スーパーで味付けされた肉を販売する仕事だった。8時出勤と11時出勤の2つの勤務に分けられ、一日に10時間ずつ、40分休憩の勤務だった。 週に一日休むことができた。客引きをするのは苦ではなかったが、立ち続けるのは辛かった。

店には私を含めて4人で仕事を回した。当時24歳、25歳の先輩が二人いて、50代くらいのおばさんが一人いた。二人の先輩たちは、女性と車の話をするのが好きだった。おば さんは、実はアルバイトをしなくてもいいが、家にいると退屈だから仕事をするんだとよ く話した。給料日に二人の先輩は、私に一緒に風俗街に行こうと誘っていた。

たまに店を管理する人が来ていた。そのたびにその人はパンをいっぱい持ってきた。パンには割引シールが貼ってあった。私はそのパンが好きではなかった。

仕事は三ヶ月くらいでやめた。

21歳、5月に軍隊に入隊した。入営の前の日、夕方の高速バスに乗って初めて一人で光州からでることになった。バスから降りて近い店で夕食を食べ、近いサウナで寝た。すべ てが見慣れなかった。早朝サウナから出て、美容室で髪を短く切った。タクシーに乗って 訓練所に向かった。タクシー運転手にぼったくられるのではないかと心配した。

訓練所の入口には、皆が家族や友達、恋人と集まって、別れを準備していた。私は一人であったため、寂しくなって、友達に電話をかけた。両親にも電話をかけた。当時好き だった女の子にも電話をかけた。

「訓練兵立場」というマイク放送が流れて、待機していた訓練兵は蟻の巣に吸い込まれていく蟻のように列を作って訓練所の中に入り始めた。一帯がさらに騒がしくなり、 時々、泣いている様子の人を見ることもあった。入所する途中に、高校の時仲がよかった 友達に、短い間ではあったが、会えて嬉しかった。 両親はその時、一緒に行けなくてごめんねと言った。

訓練所では3日間で身体検査、物品配給が行われた。身体検査は訓練兵みんなが上半身を脱衣し、一列で並んで検査を受けた。変な気分だった。

3日間のスケジュールが終わって、すべての訓練兵は各自配属された新兵教育部隊に行くことになった。そこでは5週間のトレーニングのスケジュールが予定されていた。

私はバスを乗って新兵教育部隊に運ばれた。目的地に到着すると、バスの外から待っていた教官たちが早く降りろと叫び出していた。訓練所とは雰囲気がまるで違うということ が一気にわかることができた。ここでは名前ではなく、89番の訓練兵と呼ばれた。

新兵教育部隊では軍人として歩く方法、話す方法、挨拶する方法、食べる方法、機関銃を撃つ方法、手榴弾を投げる方法、軍歌を歌う方法などを学び、身につけなければならな かった。ここでの訓練生活が一週間くらいが経った頃、家族からの手紙が届いた。その 日、私は皆が眠ってる間にポケットに手紙を入れ、こっそりトイレへ持って行った。便器 に座って手紙を読んだ。読むほど呼吸が荒れてきて、涙も漏れ出た。泣くことを誰かにバ レたくなくて、感情を抑えようとした。手紙には、健康に過ごして欲しいという言葉と愛 しているという言葉が書かれていた。

毎週の日曜日になると、全訓練兵は必ず宗教行事に参加することになっていた。

仏教とプロテスタント、カトリック教の中で、私は毎週カトリック教に参加した。営内にある仏教のお寺とプロテスタント教の教会の建物は小さかったが、カトリック教の教会は全訓練

兵が入っても余るくらいの大きい建物だった。宗教行事は1時間行なっていた。前半30分は配られた楽譜を見て聖歌を歌った。若い 男性たちが軍服を着て、集まって聖歌を歌っている様子がバカみたいだと思ったが、いつ の間にかに頑張って聖歌を歌っている自分のことに気づくことができた。

聖歌を歌って大分盛り上がったら、次は神父の説教を聞くことになっていた。説教の途中には何回もみんなでアーメンと言った。私は宗教を持ってはいなかったが、アーメンを 言うたびクリスチャンになるようで妙に面白かった。神父は我々は皆、罪人だと言った。 だから謝ろうと言った。神様は、皆さんの心の中にいるという話しを聞いて、私は私の中 の神様に私の過去の過ちを許してもらえるようにお願いした。どういう過ちを犯したかは よくわからなかった。

キリスト教の行事が終わるといつもコーラとチョコパイが貰えた。訓練兵は、軍から配給される物品の以外のものは食べることはできなかったので、唯一教会で配られた民間の製品が私にはすごく美味しかった。

5週間の新兵訓練期間が終わって、自隊配置を受ける時が来た。私を含めて、5週間の訓練の成績が良かった何人かは、教官の命令によって、教会で別に集まることになった。先 行的に優秀人員をスカウトするために、同じ師団の捜索部隊というところから上官が来て いた。その人は、集まった皆の前に立って短く、自分の部隊と部隊員になった時の任務に ついて説明し、その後、続いて個人面談を行った。

私の番となり、彼は私に自分が属している捜索部隊と呼ばれるところの大変さについて改めて強くアピールしてきた。私を怖れさせるようだった。私は彼の胸元に飾られている よくわからない各種のバッチがかっこいいと思った。捜索部隊員になりたいと言った。

私は捜索部隊に選抜され、駐屯地がある坡州へ行くことになった。また見知らぬ環境で、見知らぬ人たちばかりだったが、慣れるのにそんなに時間はかからなかった。入隊の 前、軍隊も人が住んでいるところだという話を聞いたのを思い出していた。

坡州は北朝鮮と最も近い地域の中で一つであった。

駐屯地では、毎週土曜日に、精神教育を行なっていた。各小隊が一つのところに集まると、紙の資料がみんなに渡され、それが終わると、中隊長からの'教育'が始まった。教育 の前半は北朝鮮に対して、そして北朝鮮軍に対しての情報や、中隊長の意見を聞くことが できた。前半が終わると、10分くらいの休憩があり、大体の人はその時間、タバコを吸 いに行っていた。私は同期に誘われ、初めてタバコを吸うことになった。教育の後半は北朝鮮が、我々にとって主敵であり、我々はどのような心構えで主敵と向 き合わなければいけないのかという内容がいつものことだった。

私はすぐでも、北朝鮮軍を機関銃で撃ち殺せるようだった。北朝鮮軍を殺して、褒賞をもらう想像をしてみた。

入隊の以前、私は北朝鮮についてどう思っていたのか。たまたまテレビジョンに映って いるキムジョンイルの様子、続いてキムジョンウンの様子、与党と野党の対北論争。理念 対立によって韓国と戦争に遭った国、貧乏な国、あるいは近いけど行けない外国、という くらいに北朝鮮のことを覚えていたようだ。

私の部隊は、六つの小隊があり、その中で三つの小隊は駐屯地で3ヶ月間訓練をし、他の三つの小隊はGPへ行って3ヶ月間任務を果たしていた。3ヶ月間ごとに小隊別に交代を しながら、訓練と任務を繰り返した。

GPの主な任務はDMZと北朝鮮のGPの監視だった。GPは要塞のような形の建築物で4つの監視哨があり、各監視哨には望遠鏡や望遠カメラが設置されていた。夜間には赤外線 望遠鏡が配られた。90分ごとに監視哨を回りながら北のほうを監視し、私が勤務したGP と北朝鮮軍のGPの距離は750メートル弱だった。

進級をすればするほど個人の自由時間が増えた。私は時間があれば本を読む習慣ができた。本を読むのに夢中なり、勢いで1日に3,4冊を読んだりもした。私は入隊するまで本 を最初から最後まで読んだことが一回もなかった。

ある日は、高台にある監視哨で勤務をしていた。私は斜めに立ち、片手を開いた窓枠の方にかけていた。日がちょうど稜線を乗り越えている夕方だった。北朝鮮のGPではいつ ものように米を炊く煙が燃え上がっていた。私のGPでは煙が燃え上がることはなく、た だご飯の匂いがしてきた。その日は少し変だった。

冬のDMZの風景は涙が出るほど美しかった。

除隊をした。

アルベール・カミュの異邦人を読んだ。除隊の後、私は飲食店でデリバリーとサービングのアルバイトをした。軍隊にいた時、 写真学科に通っていた後輩がいたが、彼が監視哨でカメラを上手に触る様子をみて、関心 を持ったことがあった。アルバイトで貯めた100万ウォンでカメラを買った。写真を撮 るのが楽しかった。写真に関した本を買い、有名な写真作家のことを調べたりした。当 時、私は荒木経惟とユルゲン・テラーが好きだった。

私は写真を撮る日になると、家から一番近いバス停へ行って、一番初めにバス停に着く バスに乗った。そしてなるべく見慣れてないところに降りて、写真を撮った。見てくれる 人はいなかったが、撮った写真を見て自ら満足していた。そしてインターネットでフォト グラファー、写真家になる方法などを検索していた。

この頃、私は宗教的な目的で自分に接してきた女のことが好きになった。

父は新聞の地域広告で写真クラブの会員募集という広告を見て、私に教えてくれた。私は会員登録を申し込んだ。誰かと一緒に写真のことについて話したり、交流ができるよう になるのだと思って嬉しかった。

写真クラブの初日、私を除いた会員はみんな40代から60代の年齢の人たちだった。退職後、趣味活動としてカメラを学びに来た人が多かった。

思っていたことと違う環境に失望した。毎週、月曜日の5時は、地域の大学の講義室を借りて、交流ではなく、授業を聞くことになった。みんなが教授と呼んでいる人は、黒板 の前に立ち、カメラの電源のつけ方から教えてくれた。私も彼のことを教授と呼んだ。

60代半ばくらいに見える彼のことを私は定年した教授だと思った。私は印刷物をコピーしたり、彼の雑務を手伝った。

ある日は彼は、私を家まで車で送ってくれた。移動中、車の中で彼は私にこれから何がしたいのかと聞いてきた。私は写真でやっていきたいと話した。彼は私に才能があると 言ってくれた。韓国に写真学科がある大学に入学するか、ドイツ、アメリカ、日本のいず れかの国へ留学することを勧めてくれた。私は韓国の入試試験を2回は受けたくなかった ため、留学のことを調べ始めた。

その年、秋が終わる頃、母の姉妹のおかげで家族3人みんな、初めて海外旅行として日本へ行くことになった。母の姉妹は会社から旅行のチケットをもらったが、忙しくなり行 けないから、代わりに楽しんで来てくれと話した。

九州で3日間過ごすことになった。阿蘇山が良かった。日本へ留学することに決めた。

親は留学することに最初は反対していた。教授と呼ばれた人は非正規の講師だった。

日本に来てからは語学学校に通っていた。北新宿の古いアパートで4人でルームシェアをした。すごく狭かった。初めて地震に遭ってびっくりしたりもした。

写真学科に入学するため、勉強を頑張った。授業が終わると、学校の門が閉まるまで残って、自習をした。授業後の休みの時間にも先生に質問を続けて困らせた。

予定より1年早く、写真学科に入学することができた。写真学科ではカメラの電源のつけ方から教えてくれた。

ある日、先生は授業中、ロダンの考える人の写真をプロジェクトの画面でみんなに見せてくれた。50名ほどの学生たちが聞く授業で、先生はこの彫刻の作品の名前を知っている 人はいるかと聞いた。誰もそれに答えなかった。数秒間静かになり、先生は一人を指で刺 して、改めて聞いた。その子は考える人だと答えた。

学校の授業は嫌だったが、授業後、図書館で座って写真集を見る時間はとても楽しかった。

生まれて初めてお金を払って美術館に行った。マグリットの個展を見た。

2年生になって、写真の公募展に自分の作品を出した。優秀賞をもらうことになった。恵比寿にある写真美術館の地下の展示場で展示をすることができた。グランプリの作品を 選出するため、7名の審査委員と公募展の関係者、そして観客の前で自分の作品に対し て、プレゼンテーションをすることになった。

私の出番になり、壇上の前に立った。A4の紙の2ページに、私は言いたいことを出来るだけ格好をつけて書いて、覚えてきた。

覚えてきた通りに話すつもりだったが、下手な日本語で、意思疎通に難しさを感じた。観客席の一番前に座っていた主催社の社長は居眠りをしていた。グランプリを取った人 は、翻訳の人がいたら良かったのに、と言ってくれた。 審査委員の中で一人は私の作品があまりに個人的で観念的だから、もっと見せることを 工夫した方がいいと言ってくれた。

イベントが終わり、みんなが集まってパーティーのようなことをした。飲み物や食べ物が用意されていて、3人、5人グループを組んで、片手では飲み物を持って、審査委員を 中心に集まって話し合っていた。私は群れに入ることはできず、端っこでもじもじしてい た。私を選んでくれた審査委員は私のことを探し、私は彼の隣で話すことができた。彼は 私の作品が新しいと褒めてくれた。そのあと、彼が何を話したのか、周りの人々が何を話 したのか、私の記憶に全く残らなかった。

パーティーのようなことが終わり、公募展の優秀賞の人たちだけが別に集まり、駅の近くの居酒屋に行くことになった。普段の私なら行かないような高級居酒屋だった。集まったみんなは同じ美術館の2階で行われていた杉本博司の展示のことについて話し合った。

私はその時まで、杉本博司が誰なのかわからなかった。家に帰ってきたら財布の中には名刺がたくさん入っていた。

公募展で優秀賞を貰ったことでしばらく高慢だった。ホームページを作り、インター ネットに自分の名前を検索したりした。ホームページは半年くらいでドメインの料金を払 えず、辞めることになった。

3年生になって、同じゼミの友達とよく会うことになった。いつも学校の近くのカフェでお互いに最近興味を持っていることや、芸術の全般的な話をたくさんした。一緒に作品 を作ろうと工夫したりした。日本で初めて意見が合う友達ができて嬉しかった。

同じ年、また他の写真の公募展で入選をすることになった。優秀賞はもらえなかったことを、審査委員のせいにした。

ニューヨークへ2週間、旅行に行った。日本以外の初めての外国で、いろんなことに驚いた。ニューヨーク現代美術館に行った。すごく人が多かった。ピカソ、ゴッホ、ウォー ホル、ポロック、ロスコなど、本とインターネットでしか見られなかった、彼らの作品を 肉眼で見ることができた。感動はしなかった。特別展でルイーズ・ブルジョワの個展も行 われていた。私はその時までルイーズ・ブルジョワのことを知らなかった。

グッズコーナーでMOMAと書いてある手の大きさのシールを買った。

ニューヨークの有名な本屋さんへ行った。荒木、デュシャン、ナン・ゴールディンの本を買った。ウェイウェイも買いたかったが、高くて買えなかった。

3年生が終わる頃、周りの友達は就活を始めていた。私はしなかった。つまらない授業の時間になると、ノートを出して、自分が何者なのかについての落書きをたくさんしてい た。授業が終わると、図書館で画集を見る日が多かった。

アレクサンドル・ソルジェニーツィンの焚火と蟻を読んだ。小枝のように広がっていた考えが、一箇所に集まるような気がした。

生まれて初めて、自分のお金で絵の具を買った。プリントした自分の写真の上に絵の具を塗った。リヒターの作品を見る前まで私は天才だと思った。

この頃、私は一生、作品を作る人になりたいと思った。 お風呂に入るたび、細野晴臣のアルバムをかけ、アルバムが終わると、浴槽から出た。

品川にある美術館で、美術館コレクションを見た。ロバート・ラウシェンバーグと李禹煥の作品を見て、慌てた。

4年生になると、他の大学院で博士課程をしていた友達から、あなたはたくさん考えるから、その考えを、大学院で作品と一緒に整理してみてもいいといい、大学院の進学を勧 めてくれた。

池袋にある、大型のアパレルショップでバイトをしていた。資本主義と階級構造を体験するにもっとも適した場所だった。

4年生の後期、私はゼミの先生に最近の作品を見せたくて、メールで研究室で会う約束をした。その日、研究室に入ったら、先生は何の用で来たのか聞いてきた。私は作品を見 せたいと言った。先生はわかったと言った。

私は30枚くらいの写真を用意してきた。研究室のデスクに5枚目の写真を羅列しようとすると、先生はもういいと言ってきた。私は羅列するのを止め、先生は話を続けた。

「こういう現代芸術作品と向き合う時には、4つのパータンがあると思う。一つ目、わかる。二つ目、わかろうとする。三つ目、わからない。四つめ、わかろうともしない。そ の中で自分は三つ目だ。だから自分にこういう作品を見せても、自分はなんとも言ってあ げられない。代わりに続けてみて、くらいは言える」

その後、先生は私に、フランスの写真公募展に出品することを勧めてくれた。それに関して詳しい人がいるから、紹介してくれると言ってくれた。私はわかりましたといい、あ りがとうございましたといいながら研究室から出た。待ってみたが、紹介などはなかった。

この頃、私は決定論について、強い確信を持ち、言語が持つ矛盾に対してのことを認知し始めた。トーマス・ルフ、ジョン・バルデッサリ、ゲルハルト・リヒター、ジル・ドゥ ルーズ、ミシェル・フーコーにはまっていた。

六本木で開催したソフィ・カルの個展を見て衝撃を受けた。

品川にある美術館で見たリー・キットの個展を見て衝撃を受けた。

黒澤明の羅生門を見て衝撃を受けた。

空を意識的に見る日が多くなってきた。空が美しいと感じる日が増えた。

私の卒業作品が優秀作に選ばれて、新宿にあるギャラリーでグループ展をすることになった。私には縦、横2メートルくらいの平面空間が与えられた。展示の前に、展示のレイアウトを提出することになった。私は写真作品と、小さいオブジェを一緒に配置したレ イアウトを作成して提出した。展示の担当先生は、オブジェの配置はダメだと言った。グ ループ展は個展とは違うと言った。私は学科長に抗議のための面談を申し込んだ。私の質 問に返ってくる学科長の返事も特に変わらなかった。

学科長は個展ができるように、自分の友達が運営しているギャラリーを紹介してくれると言ってくれた。待っていたが、紹介などはなかった。

大学院は写真学科ではなく、油画科に入ることにした。試験の一環としてドローイング ブックを提出することになっていた。ドローイングブックが何かわからなくて大学院に電話をして聞いてみた。電話に出た人は、自分で解釈して提出しなさいと言った。ノートを 買って絵を描き始めた。F60の木のパネルを買った、アクリルの絵の具を買って絵を描い た。楽しかった。

大学院に進学することになった。今の妻と同じ研究室で出会うことになった。

初めてアトリエができて嬉しかった。初めて油の絵の具を買って使ってみた。楽しかった。

毎朝、トマトを一個食べて、アトリエへ向かった。練馬から亀有へ引っ越し、2ヶ月後、取手へ引っ越した。ショスタコーヴィチの音楽を聴く日が多かった。

研究室の先生が白いビニール袋に油の絵の具をいっぱい入れて私にくれた。嬉しかった。携帯で写真を撮って、妻に自慢した。写真のことは忘れたようだった。 寝る時間、食べる時間、以外は絵の具を持っていた。

絵と会話をするような経験(錯覚、誤解)をした。

ある日は、駒込で展示を見て、その周りを散歩していたら、狭い路地でお父さんと子供がキャッチボールをしているところを見た。

モスクワでは旅客機の火事によって41名が死亡する事故が起きた。

絵を描きながら、自分をことを思い、家族のことを思い、人類のことを思う(錯覚、誤解)経験をした。

カニエ・ウェストのYEをたくさん聴いた。

妻と一緒にデイヴィッド・リンチの個展を見に言った。面白かった。六本木にあるギャラリーで小林正人の展示を見た。その日は展示のオープニングの日で、作家を含めてギャラリーにはたくさんの人が集まっていた。ギャラリーの奥のところには柿の葉寿司が用意 されていた。僕は二つを取り、サーモンの方は私が食べて、鯖の方は妻に渡してあげた。 ギャラリーの事務室のようなところにも絵が飾ってあった。ギャラリーのスタッフはこれ らのことを丁寧に紹介してくれた。面白い展示だった。作家は色んな人と話すのにとても 忙しそうだった。私は後日、妻と一緒にこの展示をもう一回みた。

デイヴィッド・ホックニーとフランシス・ベーコンの中古の画集を買った。

講評会があった。絵を描いてみてどうだという先生の質問にゴミを作っているみたいだと答えた。先生は自分もそうだと言った。

家の近くにあるハンバーガーの店でアルバイトを始めた。暇な時、私は店長にいい絵と は何かと聞いた。店長は自分が好きな絵がいい絵だと答えた。禁煙をしてみたが、長くは続かず、失敗した。

夏には家で小さい絵をたくさん描いた。夕方になると妻と一緒に利根川の方に散歩に行った。頭を上げて、空をみていると大きい地球の中での自分のことを感じることができた。

学校で研究室のグループ展をすることになった。学生がしそうな展示だったと思った。訪問帳に自分の作品について褒め言葉があって嬉しかった。

何人かの友達や知り合いをアトリエに招待した。みんな作品を見て楽しんでくれて嬉しかった。その中で友達からの紹介で知り合いになったキュレーターに私は展示の場所を探してると言った。彼は自分が運営してるところで 個展してみないかと誘ってくれた。私は わかったと言った。嬉しかった。

11月に滞在制作を始めることにした。その後、これは彼の予定変更で12月に延長になった。

豪雨があった。各種メディアが大雨に備えるように警告していた。妻は怖がっていた。二日に渡って大雨が降ってきた。雨が止んだ後に、水位が高くなっているはずの利根川を見に言った。思ったより高くまで水が上がってきて、早い速度で川が流れていた。川の色 は焦げ茶色と紺色だった。私と妻は用意してきたレジャーシートを敷いてしばらく流れる 川を眺めていた。右からには日が落ちていて、左からには月が昇っていた。今まで見た月 の中で一番大きい月だった。

香港では民主化運動が続いていた。

市ヶ谷にあるギャラリーでO JUNの個展を見に行った。その日はオープニングの日で駅の近くの古いカフェでコーヒーを飲んでギャラリーへ向かった。ギャラリーには歩けないくらいたくさんの人が集まっていた。学生のような人は学生のような人同士に、作家のよ うな人は作家のような人同士に、コレクターのような人はコレクターのような人同士に 揃っていた。私と妻は学生のような集まりに入っていた。作家は忙しそうだった。私は DMに使われていた絵が好きだった。

その後、妻と一緒にトークショーに参加するため、もう一回ギャラリーに行った。招かれたゲストが作品の値段について話したら、作家はそうですかと言って、よくわからないような素振りをして、その場を濁した。

清澄白河にある美術館で古橋悌二のLOVERSを見た。魔法のようだと思った。ここには芸術がないと思った。

個展の滞在制作のため、妻と一緒に根津まで荷物を運んだ。ここから3週間制作し、3週間展示をする予定だった。建物の2階で制作をして、3階で眠った。初めての個展で胸がときめいた。自らに対しての期待が高かった。

次の日、キュレーターは彼の友達を紹介したいと言い、根津のカフェで会うことになった。その中には作家もいた。簡単な自己紹介の後、お互いに携帯を使って自分の作品の写真を見せ合った。彼らは私の作品を見て買いたいと言い、いくらなのか聞いてきた。天才だと言った。圧倒的だと言った。私は値段のことはまだ何も決めてなかったため、彼らは自分たちの作品の値段を例としてあげながら、希望する値段を言った。私はわかりましたと言い、その値段で売ることにした。私はお金がなかったため嬉しかった。

しかし、その後、彼らからの購入についての連絡は来なかった。こういうことは何度かあった。

滞在の場所に慣れる暇もなく、絵の具のチューブを絞った。展示場の奥にはキッチンが あって、そこには誰かが使い切れなかった木材が残ってあった。急いで木材を使って、木枠を作った。キャンバスを張った。興奮した。 タバコが増えた。

滞在制作を始め、一週間、迷路に落ちた気分だった。

ある朝、キュレーターはこの前と同じカフェに私を呼び出した。サンドイッチを食べな がら、制作はうまくやっているかを聞いてきた。私はそうではないと言った。サンドイッチを食べ、コーヒーを飲んで、一緒にギャラリーに戻った。

彼は最初、ギャラリーの中の制作風景を見て、乗ってないねと言った。私はそうですよと言った。しばらくしてから彼は帰った。

残ってあった木材を使い切ったため、木枠が作れなかった。木材を拾いに学校へ行ったギャラリーは学校と近いところにあったため、滞在している間には学校のゴミ捨て場によく木材を拾いに行っていた。

ギャラリーは寒かった。小さいヒーターがあったが、寒さを耐えるには足りなかった。展示のことを心配し始めた。

ギャラリーから準備してくれたDMが届いた。

夕方、妻がアルバイトに行っている間、外食をしようと、ギャラリーの近くの中華屋へ行った。年末だったので忘年会など、団体のお客で店がいっぱいだった。すごく騒がし∫∫かった。一人で座れそうな席はなさそうだった。店の人は私に何人ですかと聞いてきた。私はまたきますと言って、店を出た。

夜になるとノクターンを聴きながら作業をした。ギャラリーには照明がなかったため夜になると暗かった。

絵を描くことに没頭した。ただ絵が増えていた。床にも油絵の具がたくさん付いていた。

お正月を迎えるため、妻と私は12月31日午前、荷物をまとめて、神楽坂で妻のお母さんと妹に会った。妹は神楽坂のフランス料理屋で働いていて、そこで作られたおせちを買った。妻の実家でみんなで一緒に夜ごはんを食べた。とても美味しかった。妻のお父さ んは次の日の朝に帰ってくる予定だった。妻の実家にはどこでも物がたくさん置かれて あった。妻のお母さんはどうしてこうなったのかと独り言をしていた。私はこの家が好き だった。

みんな先に眠り、妻と私はキッチンで座って、年越しを待ちながらお茶を飲んだ。

朝8時、2階で寝ている私を妻が起こしに来た。妻は1階に妻のお父さんが来ていると言った。私は妻のお父さんには初めて会うため、少し緊張していた。静かに階段から降りて、1階のドアを開けた。座っていた妻のお父さんは立って、優しく私に握手しながら私 のことを迎えてくれた。この時はまだ私は妻と結婚していなかった。

妻の実家の隣の家には妻の父方のお祖母さんが暮らしていて、みんなお祖母さんの家に行って、みんなの昔話を聞きながらゆっくり時間を過ごした。妻の親戚の方々は私のために韓国の食べ物を買って来てくれた。

次の日、私は妻の家族のみんなと妻の母方のお祖母さんがいるところに行った。車の中でみんなはお祖母さんの話をしていた。私は以前、妻と一緒にお祖母さんを会いに行ったことがあった。お祖母さんは高齢のため、養護施設で暮らしていた。妻はお祖母さんのこ とをおばあーと呼んでいた。お祖母さんはベッドで横になったまま私と妻を喜んで迎えて くれた。

5年前亡くなった私の祖母を思い出した。ちょうど日本の大学に入学した時、父から電話が来た。祖母が亡くなったと言った。その日私は家にいて、午後3時ごろ、ベランダの外を見ながら通話をしていた。もうすぐアルバイトに行かなければならなかった。家族の 中で誰かが死ぬのは初めてのことだった。父は明日から葬式を行うと言った。私は明日の 飛行機の便で帰ると言った。この時、私の声には確信がなかった。入学後の学校のスケ ジュールや飛行機のチケット代など、色々なことが同時に思い浮かんでしまっていた。父 が大丈夫と言った。日本に残って、やることをちゃんとやってと言った。涙があふれ出る ほど悲しまない自分のことを疑った。

祖母は寒い冬の朝、教会に向かっている途中、凍りついた路面で滑り、頭に怪我をした。この後、一年くらいを意識を失ったまま、寝たきりで亡くなった。

祖母は一年に3,4回会うことができていた。お正月などになると、家族みんなが祖父と祖母が住んでいる田舎に集まっていた。夜になって、寝る時間が近づいてくると、祖母は寝室に入る前、寝室のドアの前でここが暖かいからここに入って自分の隣で寝てねと言っ ていた。その度、私ははいと言って、他の部屋で寝た。祖母のいびきが嫌だった。

葬式が終わった後からずっと、私は祖母の最後が見られなかったことをすごく後悔することになった。父も私に日本に残ってと言ったことを後悔していると言った。

妻の家族と私は実家に戻って来た。荷物をまとめて、再びギャラリーへ向かった。妻のお父さんが送ってくれるといい、家族みんながギャラリーまで一緒に来てくれた。私は小さい手紙を急いで書いて、家族に渡した。

ギャラリーに戻って来た。夜、私は制作道具を片付けて、床を履いた。多くの人が来て、絵を見て喜んでくれて、販売にも繋がったらいいねと妻と話した。

展示の初日の朝、私は早く起きて床をもう一度履いた。妻と一緒に朝ごはんを食べて、気を揉みながら、客を待った。

人が来なかった。午前10時から午後6時まで一番たくさんの人が来る日は5人で、一人も来ない日が多かった。私は少し驚いた。

妻と展示の期間中に短く韓国に帰ることになった。その間、ギャラリーの留守番は友達にお願いした。韓国の家族たちはみんな妻のことを可愛がってくれた。妻は何でも美味しそうにたくさん食べた。初の個展はどうかという父の質問に人が結構来ると言った。

ギャラリーには大きい窓があって、2階から外の行き来する人や車を見ることができた。朝から晩まで人が通り過ぎ、車が通り過ぎ、雲が通り過ぎた。

展示が終わった。想像していたことは起こらなかった。妻と一緒に近くの動物園に行って動物を見た。カバを見て不思議だと思った。白南準は私と同い年で個展を開いた。ヨーゼフ・ボイスは彼の展示を歴史的な瞬間だと評した。

ニーチェのツァラトゥストラはこう語ったを読んで、途中でやめた。しばらくぼーっとしていた。

家に帰ってからは紙に絵をよく描いた。大きいロールの紙を買って、千切って、そこに絵を描いていた。根津での展示期間中、私は学校でサイ・ トゥオンブリーの画集を借りてよく見ていた。インターネットで作品を見る習慣ができた。ク・ジョンア、キキ・スミ ス、スーザン・ローゼンバーグ、ミリアム・カーンにはまっていた。ゲルハルトリヒター がメトロポリタン美術館で大規模の個展をした。その図録を買った。間違えて買って2冊 も買ってしまった。返品をしようとしたが、友人のことを思い出して、プレゼントした。 彼はすごく喜んでくれた。

学校の修了展を見た。滝本英里と磯崎隼人の展示がよかった。ジョン・バルデッサリが死んだ。

上野にある美術館でハマスホイを見ることになった。入り口にある絵を見てすごく感動した。出口にあるハマスホイの絵のバッジのガチャポンをした。欲しがっていたバッジが出てなくて、がっかりしたら、近くにいたスタッフが何が欲しいですかと聞いてくれた。 私は入り口にあった画家と妻の肖像のバッジが欲しいと言った。ちょうどそのスタッフは そのバッジを持っていて、私と交換してくれた。とても嬉しかった。

研究室の先輩の誘いで個展をすることができた。場所は御徒町だった。

新型コロナが広まった。

一週間の予定だった展示期間は短縮して、四日で終わることになった。その中で二日は一人も来なかった。DMを300枚注文して290枚が残った。展示には全部で8人が来てくれた。

髪の毛を剃って、タバコをやめた。

新型コロナで学校のアトリエが使えなくなった。家で絵を描いた。デイヴィッド・リンチとヴォルフガング・ティルマンスとフランシス・ベーコンの画集を買った。

家では小さいサイズの油絵をたくさん描いた。インターネットでポール・マッカートニーの個展の画像を見ることができた。面白かった。韓国で買って来た金煥基のエッセイ を読んだ。彼は絵が売れなかったが、自分の絵が好きだった。

家の中が絵で狭くなって来ていた。絵のことを考えていると、たまに気づいたりした。一日に大体F12サイズの油絵を2枚づつ描いた。キャンバスがない日は紙を千切って木炭 とオイルパステルでドローイングを描いた。

家で植物を育て始めた。えごまとミニトマトとバジル。毎日大きくなる様子を見ていると嬉しかった。

妻が私の誕生日にケーキを作ってくれた。夕方には唐揚げを作ってくれた。とても美味しかった。

川沿いを散歩していて、流れている川を眺めた。佐倉にある美術館でモーリス・ルイスの作品を見た。慌てた。

春になって、動物が車に轢かれて、死んでいるのをよく見かけた。自転車に乗って散歩していると、たぬきが車に轢かれ、車道で死んでいるのを見た。自転車を止めて、死体を 歩道の近くに寄せた。埋めるべきかと思ったが、そうはしなかった。

雨の日の後、午後、家の近くでスズメが車に轢かれて死んでいるのを見た。ぺしゃんこになった状態で死んでいた。歩道に寄せなかった。携帯で写真を撮った。

雨の日の後、午前、家の近くでトカゲが何かに潰されて死んでいるのを見た。ぺしゃんこになった状態で死んでいた。携帯で写真を撮った。

ロダンは自然を見ることを強調した。

私自身も自然の一部であることを認識していた。

ビデオ通話で先生と話すことになった。先生はいつも調子はどうだと聞いてくる。私はよくわからないです、か普通ですと答える。いつもそうだ。先生は私の絵を見て、新鮮だ と言った。ニュー・ペインティング式だと言った。

私は毎朝、8時と9時の間に起きる。妻は簡単な朝ごはんを作ってくれる。妻が朝ごはんを作ってくれている間、私は椅子に座って、窓の外を見る。窓の外には5メートルくら いの大きさの松の木があって、その100メートルくらい後ろには、その3倍くらいの大き さの、名前がわからない2周類の木が見える。そして空が見える。窓の外を見ていると、 すぐ考え込むことが多い。

妻が朝ごはんを持って来てくれると、考え込んでいたのが止んで、すぐ忘れてしまう。朝ごはんを食べる。

家からは200メートルくらい離れたところに幼稚園がある。朝ごはんを食べていると、 外から幼稚園へ向かっている子供の声と、その母の声が聞こえてくる。私の家は2階のア パートだから、窓越しによく彼らを見たりする。

1時間くらい後になると、シルバーの色のワゴン車一台がアパートの前にとまる。一階に住んでいるおばあさんは時間になると杖を持って家から出て、ワゴン車を待っている。 ワゴン車からは中年くらいの女性がおばあさんと挨拶し、ワゴン車に乗ることを手伝う。 そしてワゴン車はおばあさんを乗せて去る。

暑くなる頃、学校のアトリエが使えるようになってきた。半年ぶりに使うアトリエで嬉しかった。体をもっと自由に動かすことができた。

アトリエの床で横になって、天井を見ていると、ピカソとマティスとデュシャンが死んでいることを思い出した。その次、草間彌生、李禹煥も死ぬと。

梅雨が長かった。路上ではみみずをよく見かけた。死んでいるみみずもよく見かけた。

学校のアトリエに行くためにはいつもバスに乗った。バス停までは自転車に乗ったが、その自転車はバス停の近くにあるホームセンターに止めていた。私はバスの時刻表を見 て、次のバスまで時間に余裕があると、ホームセンターに中のペットショップにいる犬や 猫を見たりした。ケージの中の犬や猫は周期的に変わるようだった。

荒井由実のアルバムをよく聞いた。

家の中でたまに小さいとかげが見られた。

ゴーギャンの絵をよく見た。

11月、先生の推薦でグループ展に参加することになった。搬入の日、展示の関係者は私 の作品を見て、人がテーマですかと聞いてきた。私はあ...とえ...しか言えず、まともな答 えができなかった。

妻はたまに人間なんてららららという歌を歌う。

菅義偉が新しい総理になった。

ナゴルノ・カラバフ戦争が終わった。

まだ絵のことは語らず

アメリカ大統領選挙にジョー・バイデンが当選した。